土の中に眠る石
昭和10年2月能勢黒みかげ石採掘開業!
阪神間・京都・滋賀・名古屋・岐阜・長野・静岡
兵庫・鳥取・三重・和歌山・各方面に販売。



代表取締役会長 下坊善一 当時26歳。
能勢の石は、真砂土の中に、玉石となって眠っている。 じゃがいものように土の中にある
山はだを切り出す石の丁場(採掘場のこと)ではない。
だから石を掘り出す前に石をおおっている土をのけなければならない。土を取り除くのに「山こぶち」と「とんが」
(つるはし)とスコップを使いました。
山こぼちで土をのけて、硬いところは、とんがで掘っていったんです。そんな感じですから仕事もゆっくりしたものです。

  
終戦後(昭和23年頃)一輪車がでてきた時には、なんと便利な物が・・・・
ビックリしましたね!
さて今度は土がなくなると露出した石を平たんな場所へほうり出す作業です。
何人かで1.5m程のテコを使って石を動かすわけですが、
大きな石だと矢で割ってもかえらないこともあります。

掘り出した石をその場で30cm角ぐらいに割って馬車のつく道路まで木馬で運び出すのです。木場とは山から材木を出すときにも使った道具で修羅のようなものです。小出し用の道具ですね!木場の下に枕木を並べてその上を牛に引かせて滑らせるのです。




第2話!尾鷲の石職人
そのようにして道端まで石を出すと、次に積み込むわけですね!運搬先はだいたい、池田、茨木周辺(20キロ)遠い所で箕面(25キロ)豊中(30キロ)まで運びました。
しかし、距離があるため牛では足がもたない為牛を馬にかえて行った事もありました。

採石場では仕事は分担され石を掘り出す職人と土をのけたり捨てに行ったり、石をかたずけたりする手伝いの人が働いていました。手伝いの人は地元の人ですけど、職人はほとんどが三重県の尾鷲からの出稼ぎでした。
彼らは農家の空家を飯場にして共同生活をおこない、妻子の待つ国へ帰るのは盆と正月ぐらいだった!

職人達の休日は、雨の日です。雨の日は一日中寝ころんで暮らすか、花札をする程度でした。
池田まで出ると遊ぶ場所はあったが 激しい労働で疲れていたのか、遠すぎたのか、彼らは能勢の山を下りることはなかった。能勢の石は
ネバリがあり   石を割る場合も矢の底を換えていかなければならないのです。
だから、そのコツを覚えるのに時間がかかります。


第3話!
決心!
昭和13年、尾鷲から出稼ぎにきていた職人が 国へ帰った。職人のいなくなった、丁場へ毎日やってきては巨大な石の影に座り込んでは、思案をかさねた。

何日かたったか、下坊善一氏は自分の手で、採石しようと決心した!昭和16年も暮れに近かった。その数日後に日米の先端が切っておとされる。

そこでいよいよ、昭和17年年の一月から採石を開始しはじめたのですが最初の一ヶ月は全然石が出てこず、借金ばかり増えましたね。

そのうちに、石がやっと出てきて、それからは出るは出るはよくもこんなに
石が集団的にある物だと
大喜びしました
お金にならない石もありましたが、良かったり、悪かったりの繰り返しでした。



第4話!定盤石!
戦前は石の丁場では加工はやらなかった。 原石を出すだけである。
加工専門の石屋が原石を買って帰って、ノミや砥石を使って注文にあわせて加工する。
能勢の石は大戦までは、土建用の間知石や、建築用の延べ石の用材として使われていました。

それが、戦争にはいってから、新しい注文が入ってきました。
定盤石(じょうばんせき)である! 定盤石とは飛行機などの部品を作るための土台石で
従来、鉄板が使用されていた物が鉄不足の為に急きょ鉄にかえて石を使うようになったらしい。
寸法はいろいろで、長さ2メートル、巾60センチ、厚み15センチほどであった。

そして、定盤石の注文がものすごく入ってきましたね。(^^)
毎日殺到する注文を断るほどでした。 今なら便利な機械があって十分に間に合わせするんですが
なにしろ当時は全部手作業でしたからね・・・・そこへ空襲が激しくなり運搬を見合わせたり
こんな事が何回もありましたね。定盤石はおもに岡崎市(愛知県)の清水組石材がうけていたようですね。
私のほうは、ほとんど池田の汽車の駅まで出すのが仕事でした。

  
← 高さ約2.5m

第5話!
事故
現在はパワーショベルなどの重機があって、採掘にもあまり危険はないが、
すべてを人の手でやっていたころは、危険の連続だった。
 危険な仕事をしないことには、石を出したり、ひっくり返したりできなかった。

事故とはいつも隣り合わせにいた。それがすり傷とか、指をはさむとかの軽傷ならまだ
よかったが、ついに死者をだす事故がおこったのです。
犠牲者は下坊氏の長男(善三、当時27歳)だった。昭和29年の出来事である。 

あの時は、二つの石がかさなりあって露出していました。上にのっている石を、
テコを使って落とそうとして下の石にのって上の石をテコでこぜいていました。
すると、突然!下の石が動きだして、下の石もろともひっくり返ってしまったのです。
頭部を強打し、動脈も切ってしまったのです。 あわてて池田の回生病院へ連れて行きました。

 医者はちょっと診てから、「気の毒なことですけど、どうしようもないです。
ここでもつだけもたせましょう」といいました。
それから病院に3日ほどいましたけれど、治療のかいむなしく、亡くなりました。
仕事をしていて、何がつらいといって、死者をだすほど、辛いことはありません。

私の息子が死んだときには、こんな危険な仕事はもうイヤだ!とつくずく思いました。
女房も、おとうさん、これでも石屋をまだやるつもりですか?と言うので、
もう、やめだ!と思い10日、いや、半月ぐらいボーッとして暮らしました。
しかし、注文が入っていきます。注文主には、こういう事情だから・・・と言って帰ってもらいました。

さらに、半月程ボーッとして、考え本当に今、やめていいのであろうか!?
死んだ者は悲しいけれども、いつまでも何もしない訳もいきませんから
ふんぎりをつける為に石橋(池田市)の刀袮山にある、おがみ屋へみてもらいに行ったのです。
そこで、
「やれ」と言うお告げをいただいて、また仕事を始めたわけです。

                  

                
休憩しませんか?

                        問題 1

石の重さを当ててください。30cm角の立方体で、能勢石の重量はいくらでしょ?
答えは全角数字3文字で。 キロ



第7話!外国材との競合!
能勢石の特徴は、ところどころにアザのような黒玉がまざっていることだ。
戦後しばらくまで淡青色の石を採石していたが、昭和30年頃から丁場をかえて、
黒い石にきりかえていった。
 
黒石なら黒玉もなかろうと計算していたが、石を割ってみると、やっぱりでてました。
しかし黒系統を好む地方(滋賀、岐阜、静岡、長野、鳥取、沼津)へは相当量出荷した。
しかし昭和40年になるとアフリカをはじめ諸外国から漆黒の石材が輸入されるようになり
能勢黒石の大きな強敵となった。
 
アフリカ材の登場で鳥取以外からの注文がピッタリと止まってしまいました。
鳥取の注文はその後もしばらくつずきましたが、数年して韓国からの輸入材が入るようになると
そちらのほうが値段が安いですから、鳥取も気が変わってしまいました。
これでいよいよ能勢に石も用材としては駄目かと思っていると、今度は
庭園用の自然石としての注文が入るようになってまいりました。
 
昭和45年頃からは工場をたて、色々な機械を導入し黒玉のない部分だけをとって
墓石などを加工し、そこそこの注文が入るようになりました。
資源だけは豊富に地中に埋蔵しており息子、孫一代では取りきれないほどあるでしょう。
昭和39年頃から、経済の高度成長とともに、
お墓ブームがはじまり

 能勢の黒石は墓石に加工されて相当量各地の霊園にならんだ。
一方、採掘場からでる大量の真砂土はこれもゴルフ場の造成ブームにのり
毎日ダンプカーに何台も運びだされた。山の姿は、みるみる変えられていった。
昭和50年1月の出来事でした。


               


                       

                                

                株式会社 下坊石材