第二章 能勢石奮闘記
昭和50年編
下坊石材創設者 会長の下坊善一さんです。
95歳!! もちろん現役です(^^)
一緒に写ってるのは、 愛車のカブです。
昭和50年と言えば、著者である私が産まれた年代です。
雪の降る夜だったそうです。
そのころ採掘場にブルトーザーを購入し毎日土を取り、石を採掘していました。
ブルの操作がまた面白くて(^^) 父はお昼になっても家に帰らず、
元旦からもブルに乗っていました。
当時は、まだブルトーザーは珍しい重機だったようです。
そして、採掘場には重機を入れ、工場を建て、切削機械の導入で能勢石を販売しつつ、
他の石材を加工し墓石の卸販売事業を展開していきました。
弊社の近くに、大阪北摂霊園が昭和47年に開園し墓石ブームの波に乗り大多数の
墓石が売れました。
しかし、売れるのはとても良いのですが・・・人材不足で毎晩残業でした。
そして、職人を募集しました。やはり石材業は腕が肝心ですので良い人材はなかなか
見つからないもので苦労します。
でも人が人を呼び、人のつながりで良い職人に恵まれ、5〜6人の従業員を
雇うことと成り墓石加工がライン化され納期短縮ができました。
参考までに、原石から墓石加工完成までの納期は最短一週間ですが、
仕事の関係上実際は無理ですけどね(^^j)
次に各地の小学校の百周年記念事業がブームとなり記念碑(能勢石)の注目をあび各地に納品していきました。
詳細は会社案内をみてね!
大展示場完成!
昭和57年から昭和61年、約3年をかけ第一期展示場工事、そして第二期展示場工事をしていきました。
第一期工事の展示場は 2tから10tの自然石を展示
第二期工事の展示場は10tから20tの自然石を展示
なんと、すべて自社工事にて開発しました。 6600uの工事を、業者に依頼しますと
かなりの工事費が、かかるからです。
採掘場に重機があるので、手の空く日は職人みんなで、力を合わせたものです。
工事前はヒノキが立ち並んでいました。
今思えば、35年前に祖母の手によって植えられたヒノキだったよで
祖母は木を切るのを反対してたようです。
しかしヒノキは成長が早く工事をする頃には5寸の柱が取れる程に成長しておりました。
柱として使うにはまず、木を干さなければいけません。
田んぼに一ヵ月以上かけてヒノキを干してたのですが、風の強い日は
バタバタと木が倒れ、おうじょうしました。(汗)
そして現在の展示場の状態になりました。
時代も変わり,1989年1月 平成へと移りかわりました。
ここからは、すこし歴史を振り返り、しましょう!
記憶に新しいですが、平成の年、初の大型間接税(消費税)がスタート! 3%!
同年、歌手の故美空ひばりさんに国民栄誉賞 受賞
1990年 人口増加率が、0.38%と戦後最低を更新!
女性一人当たりの平均出産率が1.57人とこれまた過去最低に・・・
当時の流行語を覚えていますか?
「オヤジギャル」 「アッシーくん」などが流行でした。 いや〜懐かしい。
さらに、1991年 湾岸戦争が始まりました・・・そして バブル崩壊・・・・
ここから時代は急速に変化していきました。
Windows3.0が登場したのも、この頃です。(標準内蔵メモリ6MB/HDD40MB)
いまでは考えられない低性能ですね(笑)
私の使用してるPCも今では古いですが、性能は上です(ニコニコ)
でも最近キゲンガ悪く困ってますゥ・・
最後に 1992年 バルセルナオリンピック開催の年です。
日本のメダル獲得数 金3 銀8 銅11の計22個。
芸能・音楽関係では、 「愛という名のもとに」 「素顔のままで」などの
友情ドラマが大人気! 主題歌「悲しみは雪のように」(浜田省吾)などヒット
そして、著者である私は石材修行の為愛知県岡崎市の(有)ナカセキにお世話になる事となり
大阪を跡にしました。
以上で能勢石奮闘記は終了します。
ありごとう、ございました。
ご意見、ご感想をお待ちしております。
株式会社 下坊石材